小沢健二「恋しくて」新解釈

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 ■君というのは小山田圭吾なのでは■

 

先日、夜中にピアノを弾いていた。
何の気なしに、無造作に、小沢健二の「恋しくて」のコード譜と歌詞を開く。
何十回何百回と聴いた曲。
口ずさむと何故だかその日は違って聞こえた。

 


幸せなときは 不思議な力に 守られてるとも 気づかずに
けど もう一回と 願うならば それは複雑なあやとりのようで

 

 

「あれ?複雑なあやとり。これってホントに恋人との歌なのか?」

似たような表現を何処かで見た気がした。
何処だったか忘れたけれど、テレパシーが消えてなくなったとかそういう類のものを何度となく。
それは勿論、小山田圭吾とのお話。
1991年、フリッパーズギターが解散した「公」での理由。


1997年12月18日に発売されたOliveの連載、小沢健二のドゥワッチャライクの最終回で、

 

AとB二人がいる所に、CがAに、何かBの知らない重大な事を言う。Aは否定するが、Bの中に生じた疑念は消えない。
Aが肯定しても、Bは「何で言わないんだよ」と思ったりする。それが良かったり悪かったり。
しかも二人という関係は、どちらかが回路を閉じれば、それで終わりである。
恋愛や結婚が、三人でするものならば、又違うだろうに、三人一緒にベッドに入るのは、今の所極限られた人々だけである。

 

とある。
フリッパーズは2人だ。となればここに書いてあるようなことも当てはまるのだろう。
それがすべての理由ではないだろう。しかし「テレパシー状況」は消えた。

ここまでの流れが一気に自分の頭に渦巻いた。
もう一回と願っても、それは複雑なあやとりのようで元のきれいな状態に戻らない。

 

これはフリッパーズ、そして小山田圭吾小沢健二を敬愛する者が抱きがちな「何でもフリッパーズフィルター」がかかっているのではないかと真っ先に危惧した。
しかし、この曲自体を元恋人との歌だと無意識に考えていたことだって、「恋しい」という表現を恋人に使うものと勝手に決めつけるフィルター越しの解釈なのではないか。
ということで、今一度この歌詞に出てくる「君」をフリッパーズの相方に起き考えて読んでみた。

 

■呑みこまれてゆく 魔法のようなもの■


「寒い夏の朝」という表現がある。
「午前3時の熱く焼けたアスファルト」という「午前3時のオプ」と似たような表現。
普通、夏の朝は暑い。こういう風に感情を真逆の熱度で表現する彼の歌詞はすごく印象に残る。
そこで「呑みこまれてゆく 魔法のようなもの」を感じているのだ。
これについては後述する。

 

フリッパーズの二人ということを意識して歌詞を読むと、全てがしっくり、すっぽりと収まる。
彼らは夜中にどちらかの家で作曲をし、その合間にコンビニに行ったり、酒を飲んだり色んなことを共有しただろう。
きっと曲作りの合間にシリアルママとか蛇拳を見て笑い合った。
ブドウも食べたし、キムチラーメンを急に食べたくなって探索に。

そして、そういった「テレパシー状況」にあった魔法のようなものは消えてしまった。
それを彼らは長すぎる春と知っていた。夏休みが終わることも知っていた。
だが、そういう魔法のように心が通じ合う状態というのは確実に存在する。

 

 

光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。それはそれのみとして、分けられずにあるもの。
切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。
僕らの体はかつて星の一部だったと言う。それが結合して、体が在って、その心が通じ合ったりするのは、あまりにも驚異的で、奇跡で、美しい。
※ドゥワッチャライク最終回より

 

 

切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。
当時一世を風靡していたエヴァンゲリオン人類補完計画のように、全ての人の心が通じ合っていたらという考えともリンクするのが面白い。


最後にもう一つ。一番言いたいこと。
この曲の途中に入る「Baby baby!」について。
これは紛れもなくBen E. KingのStand by Meのオマージュである。
この曲が主題歌の同タイトル映画、その内容は言わずもがなであろう。
もし見たことのない方がいたら是非観賞することをお勧めする。
この曲の、そして彼ら二人の関係がわかるのではないか。

そしてきっと今大人になった多くの男性にそういう「古い友」がいると思っている。
それはあるときだけに生じている、呑みこまれてゆく 魔法のようなもの。