オルタナとロック
音楽の世界に身を置いているとよく思うことがある。
「ロックをやりたい」とか「ロックなバンドでありたい」という人達がとても多い。
しかし本質的にロックというものを捉えている人がどれだけいるのだろうかということ。
体感的に9割はロックというものをサウンドで捉えている。
「ロックサウンド」が好きということだ。
それはバンド形態であり、ギターが激しくかき鳴らされていて、エモーショナルなボーカルが乗っかっている。
好みはそれぞれで、私自身もそういう音楽が嫌いなわけではない。
しかし、表面的な音楽はとても嫌いだ。
もし「ロック」というものを「サウンド面だけでなくイデオロギーとしても理解している」と自負して「激しいことがロックだ」という安易な音楽表現をしている人がいるなら、私とは相容れない。
エルビス・プレスリーがロックだというのは端的に言えば黒人音楽を白人が昇華したという点がとても大きく、サウンドや歌い方がどうこうというものは後から付いてきたものだ。
例えばフリッパーズ・ギターはネオアコというジャンルを謳われてデビューしたわけだが、彼らは本質的にオルタナであり、ロックだ。
その時たまたまそういうサウンドをやりたかっただけであり、そのサウンドにこだわりはない。
彼らにこだわりというものがあるならば、それは「信念」である。
「ティラミスになれたけれども、なりたくなかった」と当時彼らが発言したように、売れっ子スターになる土壌や条件はそろっていたが、彼らのオルタナ精神はそれを拒んだということだ。
「フリッパーズはパクりだ」とよく言う人がいる。
パクりの定義は色々ある。しかし概念上は完全にセーフだ。
オマージュというのは彼らの表現方法であり、オリジナルになっている。
そして引用についてもバレバレになるようにやっているのだ。
それを「パクり」とナンセンスな言葉で片付ける方がセンスがない。
勿論著作権的に問題になれば相手側との裁判などに発展するケースもある。
しかし、あくまでも今は概念の話。
オマージュはパクリではない。
※音楽の著作権についてはこの弁護士の方のブログがわかりやすいのでよかったら参考に。
表現においてオルタナティヴというのはメインストリームに対するカウンターである。
故にロックサウンドがありふれているときに同じことをやるのはロックではない。
「ロックサウンドがありふれてるけど、これでいいの?それってロックじゃなくない?」と常に疑い、自らを客観視し、新しいものを提起する。
それがオルタナ精神であり、ロックだ。
ヒップホップも元はそういう反骨精神があったはずだ。
ファンションとしてのラップが流行し、流行りのサウンドに載せて過激なことや身振り手振りまで黒人の真似をしたところで本当のヒップホップは掴めない。
常に新しいものを生み出し続ける人がロックなのだ。
その風貌は何でもいい。生み出したものさえ新しく面白いならば。
そういうアーティストを常に探しているし、そうありたい。
しかしながら残念なことに、こういう記事を書いた時点でロックではない。
そう、ロックであるのは難しい。