小沢健二の言う「裏切り」の意味
先日、小沢健二のオフィシャルサイトひふみよに「裏切り」という言葉が突然現れた。
そんな風に動いていく世で、日本の社会の渦の真ん中らへんに今回身を置いてみて(テレビ局に行くとか、普段しないので)、『流動体について』という難しい内容の曲への反応を感じてみて、うーん、やっぱり僕は今回『流動体/神秘的』を良いと思ったような人たちを、恐ろしい言葉ですが、一回裏切ってしまったのだと思います。※ひふみよより
これはどういうことなのか。
何も考えずに頭に浮かんだものは「長い間メディアに出ず、彼らしい音楽を90年代の様な頻度でリリースしなかった」ということ。
しかしながら小沢健二がこのようなある種重い言葉を発信するとき、思考停止してはいけないということはよく解っている。
きっとそんな表面的なことではない。
ではその真意は。
■フリッパーズ時代とソロ時代■
かなりさかのぼって、フリッパーズ時代*1と小沢健二がソロになってからの歌詞の変化にあったのではないか?それが小沢健二のソロを好きなファンを可逆的に「裏切った」という表現に繋がったのでは?と推測した。
ソロ時代よりもファッション面などがフィーチャーされていたことや、彼らのシュールで冷めた歌詞。一見それは彼のソロ活動とは一線を画すように感じる。
小沢健二が「フリッパーズのときのCDは燃えないゴミの日に捨てちゃって」と発言して過去を否定したり、小山田圭吾が小沢健二の初めてのソロ音源を聞いて「尾崎豊みたいだ」というぐらいメッセージ性の強いイメージを抱いた等の根拠がある。
しかしながらそんなことはない。フリッパーズ時代の歌詞は全て小沢健二が担当していたと聞く。
3rdアルバムにして最後のオリジナルアルバムとなった「DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-」の歌詞を見るとそれが解る。
フリッパーズに関しての話はとても分かりやすい記事があったので、この解釈を参考にしていただきたい。
このアルバムではこれまでのように「冷めたフリッパーズ」だけではなかった。
必ず来る終わりへの寂しさや虚無感、その彼らの感情そのものがシュールな言葉の中からビリビリと伝わってくる。
思い返すと2ndアルバム収録曲「すべての言葉はさよなら」の歌詞で
ー分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさー
と言っていた。それはとても冷めていたが許容することからの可能性を歌っている。
「オザケン」の代名詞「肯定」はこのころから健在なのである。
また、同じく2ndの収録曲「ビッグ・バッド・ビンゴ」では
ーハイファイないたずらさきっと意味なんてないさー
とも。彼らが冷めてたりふざけているように見えるのは「ハイファイな」いたずらなのだ。
あまりにも手が込んでいる為に普通にしてたら見えてこないものがある。
「『きっと』意味なんてないさ」と言っているが、きっと意味はある。
それは小沢健二がソロになり「ローラースケート・パーク」でこう言っていることからも解る。
ー意味なんてもう何もないなんて僕がとばしすぎたジョークさー
ソロになりフリッパーズのイメージを考慮する必要がなくなった彼は1stアルバムのこの長い曲で簡単に「行き過ぎたジョーク」と否定する。フリッパーズの時から「意味はあった」のである。
それは彼らの音楽活動や生きる意味のこと。
ということでフリッパーズ時代から小沢健二自体の考え方の根本は変わっていない。
ソロになりより広い考え方を身に着けただけなのだ。
■商業至上主義と芸術至上主義■
となると、ここにたどり着く。
彼についての肩書きを「ミュージシャン」というと少し違和感が残る。
彼は明らかに「アーティスト」であり商業至上主義ではない。
※ミュージシャン全てを商業至上主義者と言うつもりではなく、彼の独創性を表現する為にここでは対比に使わせて戴いた。
良家に生まれ、タレントとしてもマルチに活躍した人気者の彼が今更どうして商業に走る必要があろうか。
フリッパーズ時代からの活動を見ていればわかるが「売れたい」というよりも「表現したい」という欲求が遥かに強い人だ。
一度「オザケン」というアイドルに全力を捧げ、アウトプット過多によるアメリカ充電期を経て、ガゾリン満タンになり満を持しての復帰シングル。
それが今回の「流動体について/神秘的」である。
それを発売しようとした意図は間違いなく「表現したい」という欲求があるからだ。
そして日本の音楽シーンの体系を変えたいという「意思」なのだと思う。
私も音楽活動をする身として発言させて戴くと、無料ダウンロードを簡単にさせるという現状には疑問を覚える。
「世界中そういう流れだから」と言うものが多いが、自分が身を削って時間をかけて作った作品を何故無料ダウンロードさせようと思えるのか。
シングルの価値は下がり、アルバムが出るまで待つ。
あわよくば違法ダウンロードやストリーミングサービスで安くそれらすら手に入れる。
消費者よりも作り手にプライドが欠けているからこういう体系が形作られているのではないか。
どうせ使い捨てされるならいつもの型で少し変えて短時間で沢山作ろう。そうなっているのではないか。
※余談だが筆者は「Aメロ⇒Bメロ⇒サビ・・」等という固定概念にとらわれる音楽を「現代の演歌」と呼んでいる。
彼が1997年辺りからシングルは出すがアルバムは出さない。そしてアメリカに行ってからは長いスパンを空けてアルバムを発表するというスタンスも一曲の価値を下げたくないからだと思う。
それに比べて現在の音楽業界のデフレーションは音楽シーンの発展を阻害すると感じている。
これらをまとめて打破しよう。
小沢健二がそう考えていたらと思うとこれ以上のワクワクはない。
その為には彼が作った「芸術的作品」が現在の音楽チャートで「商業的に」売れなくてはならない。
その流れで彼は精力的にメディアに出演している。
それを彼は芸術至上主義の小沢健二を良いと考える人への「裏切り」と表現したのだろう。
冒頭の文に続く、
感傷的に言っているつもりはなくて、割と冷静に言って。それは取り返しのつかないことなのですが、裏切ったことで裏切らなかったこともあるというのを、言い訳みたいですが、わかってください。※ひふみよより
というのは「裏切ったこと」=「売ろうとしていること」で、「裏切らなかったこともある」=「身を削っていつも通り彼が表現したいことを正直に作品にしたこと」。
まとめると「芸術至上主義の彼の作品」を「日本の都市に広めること」によって音楽シーンの芸術的質を高めるということ。
それは作り手と受け手、両方の質を高めるということ。
それが結果的に「裏切り」になる行為だと彼は言うのだ。
こんな素晴らしいことに対して「言い訳」だなんて思うファンはいないだろう。
心から応援するとともに、私自身もこれまで通り彼と同じメンタリティで曲作りに励むことを決意せずにはいられない。
*1:フリッパーズ・ギター:小沢健二と小山田圭吾によるユニット