「国民1億人総 田島カンナ」リバーズ・エッジ感想

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リバーズ・エッジのネタバレを含みます。

 

先日リバーズ・エッジを劇場で観てきた。
コミックでは読んでいたが、オリジナルが出版されたのは94年とのことで、その時自分はまだ小学生である。
ご存知の通り、エンディング曲には岡崎京子の親友、小沢健二が書き下ろした「アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)」が使用されている。

 

岡崎京子小沢健二についても20歳を過ぎてから深く追うようになったが、リアルタイムでは上っ面だけしか見えていなかった。
小沢健二が日本での活動を休止し、日本を離れ、笑っていいともに帰還した2014年春、もう一度彼のことを追った。

 

「小沢くん、インタビューとかでは何も本当のこと言ってないじゃない」と岡崎京子は言う。
それに対して、彼は作品の中では本当のことを言っているのだと思う。フリッパーズ時代からソロになってもずっと。
しかし彼の歌詞を本当の意味で理解してくれる人は中々いなかった。否、理解しようともしていなかった。
そういう人達を揶揄する意味でも「あやふやで 見栄ばかり張る 僕たちのドーナツトーク」と書いたのではないか。

 

その考え方が色濃く岡崎京子リバーズ・エッジで描かれていたと思う。
上っ面の会話だけで、本音は体の奥深くに沈める。一見綺麗なのは見えているところだけ。

 

苦しくて見ていられなかったという意見や、表現がグロい・エロいという感想もちらほら見られた。

個人的には一切そういうことは思わなかった。

そういう断片的な表現よりも、もっと大切な深い部分に集中していたからだ。

 

登場人物の山田君は「とても正直な人」。
ドーナツトーク側」のマジョリティからすればサイコパスの様にも映るかもしれない。
しかし、人は誰しも淀んだ川の様な部分が存在する。
それを見透かされないように、自分でも忘れる為にドーナツトークをする。見てみぬふりをする。
自分の汚さを認めたくないし、綺麗であろうと思ってしまう。
綺麗?美しさ?
「本当の美しさ」とは?

 

山田君が考える美しさというのは正直であることなんだと思う。
同性愛者ということを隠そうとはしないし、思ったことを躊躇せず口にする。
それは吉川こずえも持つ部分である。
山田君が死体から勇気を貰えると感じるのは、それがあるがままの状態を包み隠さず正直に見せているからだろう。
それが腐敗して肉が剥がれ落ち、木の枝とも思いかねない土にまみれた骨だったとしても。
きっとそこから、死という正直な生を感じるのだと思う。

 

では、若草ハルナは?
彼女はドーナツトークもする。山田君のピンチに助けるとはいえ、それ以外の部分で山田君に引っかかったところは何処なのだろうか。
きっとそれは「認知」しているかだ。
自分が生きているか死んでいるかわからない状態ということをハルナは自覚している。
山田君はそれを察して「フツーのヒト」であるハルナに同性愛者であることや田島カンナに気持ちがないことを話す。

 

今も昔も「認知する」というのはとても重要なことに思う。
生きてるのか死んでるのかわからない状態を山田君とハルナと吉川こずえは共有している。
しかしそれ以外の登場人物はそうではない。
認知せずに行動をしている。
ドーナツトークをしていることも、汚い部分を隠せていないことも。

 

「お洒落なことをやっているフリッパーズギター」を好きだったファン達は、小沢健二にとって「口に生ゴミつめこんでやりたい」存在だったと思う。
きっと岡崎京子が、そういう部分の象徴として切り取ったのが田島カンナだ。
物事を認知せず、深く考えず、上っ面の部分で対象を好きになる。
「生きることとは?」という問いに無言で笑って首をかしげる

 

それは今も昔も同じで、メディアや噂話に踊らされる日本中のマジョリティ。
当時はテレビや雑誌、今はネットニュースやSNS
「ごらんよ幾つもの噂話この世界に広がる」とフリッパーズは歌い、「さよなら」した。
当時TVや雑誌を鵜呑みにし、自分で考えることをやめた人間に。
その歌詞と同じことが、30年近く経った今でもインスタやTwitterで繰り広げられている。
リバーズ・エッジの映画化というのはそう意味でとても良いタイミングだったように思う。


平坦な戦場は今も続いている。
そしてそこを1億人もの田島カンナが闊歩している。

 

正解とか不正解とかではない。
きっと自分で考えなければならない。
そこに気付かなければならない。